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鎮護国家思想についてもう少し深堀

こんにちは、ナッツです!

昨日に引き続き「鎮護国家思想」についてもう少し書いていきたい

と思います。

鎮護国家思想とは、仏教によって国家を護る、また仏教には国家を

護る力があると考える思想です。

奈良時代に一気に日本中で仏教が広まり、日本の礎ともいえる基礎

的な考えですが、この仏教を中心に様々な政策も試行されました。

影響を受けた政策

僧尼令

各僧侶・尼らが勝手に得度(とくど:僧侶となるための出家の儀式)

を行うことや、朝廷の許しなく民衆を率いる事等を制限。

僧侶になるには、仏教教団の10名の承認があり、戒律を護る事を

誓えば誰でもなれるものであった。

中国・日本においては労働・納税・兵役を免除されるため僧侶になる

者が続出、国家の財政を脅かす事態となったため、年度や地域毎に

僧侶になる人数を制限した。

度牒制度(どちょうせいど)

国家が得度した僧尼に身分を保証、国内の僧尼の管理は「僧網」と

呼ばれる僧官らにより実施される。

741年(天平13年)に聖武天皇が発した「国分寺」の建立及び建設

事業(国のあちこちに仏像や経典を行きわたらせ、国の安定を図ろ

うとする意図があった)

743年には国家の安泰を願って聖武天皇が、東大寺盧舎那仏像の造

立を発願(752年に開眼供養・東大寺の整備も進む)

南都七大寺(東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・西大寺・薬師寺・

法隆寺)を保護し、各寺院で多数の僧侶が仏教の教理研究を行う

ことを奨励。

光明皇后が亡父藤原不比等、亡母橘夫人の追悼の意を込めて7000

巻に渡る「光明皇后発願一切経」を20年がかりで実施

以上上記のような施策・政策は国家を守るため、また皇族が自ら

仏教に対する帰依を象徴的に示すような意図や役割があるもので、

当時の国家運営と仏教が強い関係性にあったことを示している。

また、当時は遣唐使等の派遣もあり、仏教思想が発達している

中国からの文化を積極的に吸収し、日本の仏教をより強固な

ものとするための模索も多く行われていました。

また、仏教の信仰というものは国家を守るためのものである以上、

勝手に独自の信仰が深められることは国家に対する一種のリスクに

なり得ます。

そのため僧尼令や度牒の仕組み等によって、仏教に携わる人物を

国家による管理下に置く。

国家によりその身分を保証するという「統制」も一定程度実施され

ました。

奈良時代において鎮護国家思想に基づく政治が目に見える形で進

んだのはやはり「聖武天皇」の時代であり、東大寺大仏の建設事業

は、飛鳥時代以降着実に「仏教色」が強まった日本にとって、いよ

いよその「鎮護国家」としての性質をはっきり示すことになる象徴

的な建設であったといえる。

奈良時代以降の鎮護国家思想

大きな時代の変革ともなった鎮護国家思想、その概念が歴史用語と

してはっきり示される時代は奈良時代が主ですが、その後も影響は

残り続けます。

例えば空海の五穀的な思想、鎌倉新仏教の時代における末宝思想の

流行に対しての鎮護国家的アプローチの拡大や、朝廷や国家既往の

みならず、むしろ仏教の世界の自律性、奈良時代の異なる権力バラ

ンスの中において鎮護国的な考え方が深まる局面もあります。

また、奈良時代における鎮護国家の理論的柱といえる「仁王般若経」

・「金光明経」に対して平安時代には「法華経」が加えられ、これ

らは「護国三部経(ごこくさんぶきょう)」と呼ばれる等重要な経典

として取り扱われました。

仏教と国家を巡る制度的な枠組みでも、平安時代に入ってからもし

ばらく受け継がれたものもあった他、鎌倉時代の臨斎宗の保護、江戸

時代の寺院諸法制度、戦略的な意味も含めて仏教と国家の繋がりは

明治維新の時代・神仏分離や廃仏毀釈の時代まで何らかの形で続い

ていたのでしょう。

一方で平安時代以降は藤原氏支配に象徴されるように、天皇親政とは

到底言えない時期が大半であったこともあり、聖武天皇のように仏教

による国家の守護といった明確なメッセージ性を出し、そのうえで一大

公共事業を行うようなわかりやすい図式は見られません。

その点において、天皇親政の中において明確な鎮護国家思想が示される

「奈良時代」が典型的な鎮護国家であり、それ以外の時代はあえて

「鎮護国家」という用語を持ち出す必要はなかったのかもしれません。